2)末の松山への誤解
 東北と言えば、歌枕「末の松山」があり、次の歌が有名です。
   君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波もこえなむ(古今集、大歌所御歌、東歌陸奥歌)
   契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは(後拾遺集、恋四、清原元輔 百人一首)
百人一首の元輔歌への先入観から、これまで「末の松山」は、波が越えない所とされ、「あだし心」を持たない愛の誓いの喩えと説明されてきました。
 ところが、2011年の東日本大震災の大津波で、名所「末の松山」を波が越えてしまったのです。源氏物語の末摘花巻には、次の風景描写があります。
   橘の木のうづもれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も「名にたつ末の」と、見ゆるなどを……
 この「名に立つ末の」は、次の歌を引いています。
   わが袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし(後撰集、恋二、土佐)
この歌と先の有名な二首だけを知る読者は、なぜ雪の光景に末の松山が出てくるのかわかりません。源氏が末摘花に愛を誓う場面でもありません。ここは、次の歌を思い出さなければならないのです。
   浦ちかく降りくる雪は白波の末の松山越すかとぞ見る(古今集、冬、藤原興風 寛平御時后宮歌合)
この歌では、海辺の浦近く降っている雪が末の松山を波が越すように見える、と詠んでいます。「浦近く降り来る雪」が、東歌で詠まれた「白波の末の松山越す」光景を思わせることから、あり得ないことが現実に起こったかと驚いています。源氏物語は、雪を白波に見立てた興風歌を受けて、波が山を越える時の波頭の光景を、松の木の跳ね上げた雪が弧を描いて落ちる様の見立てとしたのです。
 2011年3月10日、私は京都アスニーの講座において、この光景の説明をしたのですが、その翌日の同時刻、テレビで、防波堤を軽々と越えて迫る大津波と白い雪の光景を見て、わが認識不足に愕然としました。当時まだ東北では、雪が断続的に降り、ときに吹雪いていました。人々は、浦近く降る白い雪を見ては、また大津波が来たかとハッとしたでしょう。国文学者が恋の誓いの喩えなどとのんきな説明をしてきたことで、現地の人々が安心していたのではないかと責任を感じて、パリから帰国したばかりの4月の講座で、この問題を緊急報告しました。ネットでも末の松山を波が超えたことが話題になり、興風の歌について、都の人だから「末の松山」をよく知らずに詠んだなどといった発言も見られました。そうではありません。興風は、相模、上野、下総の地方官を歴任していた人物です。歌を詠んだのも、寛平二年(890)の歌合においてです。この頃はまだ震災の影響が大きく、仁和三年(887)にも全国で大地震があったそうです。興風自身も、貞観11年(869)の大津波を経験していた可能性が高く、たとえ都にいたとしても馴染みのある土地の被害には心を痛めたでしょう。それゆえ歌合では、浦近く降る雪を見てハッと驚く思いを歌で表したのだと思うのです。
 「末の松山」は、滅多に起きないが、あっては困るという意味の歌枕と訂正するべきです。結果論ではなく、歌の解釈を誤ったために人々が油断していたなら、国文学に携わる者の責任だと言えます。私たちがよく知る百人一首の歌とその本歌の東歌だけで判断するのではなく、本当の教養を持っていなければ、間違いは繰り返されます。平安時代には、元輔歌よりも、古今集の東歌と興風の歌の方が広く知られていたはずです。そもそも、この東歌が大歌所御歌として収められたことにも意味がありました。清和天皇の時代、貞観大津波のあった年から御霊会が盛んに行われ、それが祇園祭として現在にも伝わります。また、元輔歌の「袖をしぼる」というのは、ただ涙にぬれる誇張表現ではなかったのです。土佐の歌の「わが袖は」「波の越えぬ日はなし」という表現も、大津波が末の松山を越え、被害に遭った人々が全身濡れて、泣きながら袖を絞り合ったことを意識したものだったのだと思います。 

 参考図書
 ・『源氏物語の巻名と和歌―物語生成論へ―』(和泉書院、2014年)
 ・『源氏物語の風景と和歌』(和泉書院、1997年 増補版、2008年)
    
1末の松山
 2013年10月撮影。芭蕉が『奥の細道』で書いていたように、傍には墓があるばかりで山はありませんが、平安時代には松の山だったのではないでしょうか。横の看板の解説には、古今集の東歌と元輔の歌が引用されています。
※末の松山は、ここに限定する根拠はなく、他に岩手県一戸の説もあります。  
 
2『十帖源氏』末摘花巻
 源氏は橘の木の雪を随身に命じて払わせます。すると松の木は自分で「末の松山」のように雪を跳ね上げた、という光景。狩野派の絵に見られる図様です。
〈補足〉
 源氏物語にも、「末の松山」の歌があります。
  うらなくも思ひけるかな契りしをまつよりなみはこえじものぞと(明石巻)
  波こゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな(浮舟巻)
紫の上が源氏を恨む歌と薫が浮舟を恨む歌です。これらはもちろん、右に引用した歌を基にしていますが、いずれも「あだし心」をもたれた女の嘆きを詠んでいます。紫の上の歌では、「松より波は越えじ」(源氏が浮気心を持たないだろう)の意味と、京に残された自分は「待つより無み」(待つよりほかに仕方ないのに)という意味をかけています。浮舟巻の薫の歌では「こえじ」ではなく「こゆる」と言い切っています。源氏物語の作者もまた、当時の東北の状況を知った上で、「末の松山」を持ち出したのでしょう。