夕顔物語8
さてかの空蝉
(うつせみ)のあさましうつれなきを、この世の人にはたがひておぼすに、おいらかならましかば、心ぐるしきあやまちにてもやみぬべきを、いとねたくまけてやみなんを、心にかからぬをりなし。かやうのなみなみまではおもほしかからざりつるを、ありし雨夜(あまよ)の品(しな)さだめの後、いぶかしくおもほしなる品々のあるに、いとどくまなくなりぬる御心なめりかし。うらもなく待ちきこえ顔なるかたつ方の人を、あはれとおぼさぬにしもあらねど、つれなくて聞きゐたらんことの恥ずかしければ、まづこなたの心見はててとおぼすほどに、伊予(いよ)のすけのぼりぬ。まづ急ぎまいれり。舟道(ふなみち)のしわざとて、少し黒みやつれたる旅すがた、いとふつつかに心づきなし。されど人もいやしからぬすぢに、かたちなどねびたれどきよげにて、ただならずけしきよしづきてなどぞありける。国の物語りなど申すに、湯げたはいくつと、とはまほしくおぼせど、あひなくまばゆくて、御こころのうちにおぼし出ることもさまざまなり。物まめやかなるおとなを、かく思ふもげにおこがましう、うしろめたきわざなりや。げにこれぞなのめならぬかたわなめると、馬の頭(かみ)のいさめおぼし出て、いとほしきに、つれなき心はねたけれど、人のためはあはれとおぼしなさる。むすめをばさるべき人にあづけて、北の方をばゐて下りぬべしと聞き給ふに、ひとかたならぬ心あはたたしくて、いま一たびはえあるまじきことにやと、小君をかたらひ給へど、人の心をあはせたらんことにてだに、かろらかにえしもまぎれ給ふまじきを、まして似げなきことに思ひて、いまさらに見苦しかるべしと思ひ離れたり。さすがにたえておもほし忘れなんことも、いと言ふかひなくうかるべきことに思ひて、さるべき折々の御いらへなど、なつかしく聞えつつ、なげの筆づかひにつけたることの葉、あやしうらうたげに、目とまるべきふし加へなどして、あはれとおぼしぬべき人のけはひなれば、つれなくねたきものの忘れがたきにおぼす。いま一方は主つよくなるとも、かはらずうちとけぬべく見えしさまなるを、たのみて、とかく聞きたまへど、御心もうごかずぞありける。
空蝉の夫・伊予の介と対面
[口語訳]
 さて、あの空蝉の何ともつれないことが、世間一般の女と違って思えるので、素直に受け入れたなら心苦しい過ちだと思って終わるのに、しゃくなことに負けたままなので気にならない時はない。こんな並の身分の女に思いが及ぶことはなかったのに、あの雨夜の品定めの後、気になる階層の女があり、ますます関心が広くなる御心のようだ。疑うことなく待っているもう一方の女に情けを感じないわけではないが、つれない人が聞いていたことが恥ずかしく、まず空蝉の心を見定めてと思ううちに、その夫の伊予の介が上京してきた。真っ先に源氏のもとに参上してきた。船旅のせいで、少し黒くやつれた旅姿は、不格好で感じが良くない。しかし家柄は卑しくなく、容貌は歳の割にさっぱりとして、態度が立派で風格がある感じだ。伊予の話などを申すので、温泉はいくつかと聞きたかったが、まともに顔を向けられず、心中にさまざまなことを思い出す。まじめな年輩の男に対して、このように思うのもみっともなく後ろめたいことだ。確かにこれは尋常でないけしからぬことだと、馬の頭の忠告を思い出して申し訳なく(空蝉の)つれなさはしゃくだが、夫のためには感心だとお思いになる。娘をそれなりの男に任せ、北の方を連れて下ってしまうつもりだとお聞きになると、定まらなかった心もあせって、もう二度と機会があるまいと弟の小君に手引きを頼むが、双方が示し合わせてですら気軽に逢えないのに、まして(空蝉は)不似合いだと思って、改めて見苦しいと思いを断っている。それでも、まるで忘れられるのも甲斐がなくつらいので、何かの折々のお返事などを親しく申し上げながら、さりげない文面にそえた歌も、妙に可愛らしく目にとまる箇所も加わって、愛情を感じさせる様子なので、(源氏は)つれないのはしゃくだが忘れがたいとお思いになる。もう一方の女は、夫が決まっても、相変わらずうちとけて来そうな様子に安心して、いろいろ噂を聞くが御心は動くことがないようだ。
[鑑賞]
 突然「空蝉」の話に変わる。帚木・空蝉二巻の後日談である。巻の後半にも、伊予に下る空蝉との別れの贈答が語られる。この二巻と夕顔巻とが帚木三帖と言われる所以である。源氏は、伊予の介の後妻である空蝉のつれなさに、かえって未練が増す。かつてなら関心を抱くはずもない身分の女なのだが、帚木巻で三人の男たちと話した「雨夜の品定め」以来、並の身分の女が気になる。空蝉の寝室に忍び込んだ時に人違いで契ったもう一人の女(空蝉の義理の娘)にも情けを感じながら、つれない空蝉に気持ちが向く。そうしているうちに、夫の伊予の介が国元から上京し、源氏に挨拶に参上する。普通なら、この程度の身分の男をほめることなどしないのだが、源氏の負い目とやましさゆえだろう、源氏はこの男に負けたような感情を抱いている。珍しい場面だ。
 「湯桁はいくつ」は、文字通りの意味としては、当時多くの温泉があった道後温泉の湯はいくつか、という問いであるが、この「湯桁」から源氏は空蝉巻の出来事を思い出す。碁を打っている女二人の様子を垣間見ていた時、娘の方が指で碁の目を二十、三十、四十と数えているのを、源氏は「伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ」(数多い伊予の湯桁も確かに数えることができそうだ)と思ったのだ。つまり「湯桁はいくつ」と言おうとした時、その時の垣間見の様子やその後の出来事をありありと思い出し、まともに相手を正視することもできなくなった。色好み源氏にしてなんと情けない。いかにも純情な若い男の感じがよく出ている。帚木巻頭の「光源氏、名のみことごとしう」は、こうした情けない源氏の恋に対する評価でもあったのではないだろうか。

空蝉巻で、源氏は、空蝉との間を取り持つ役目に、弟の小君を小間使いとして引き取っていた。ここでも小君を使うが、空蝉本人が承知しない。かつては少し迷いのあった空蝉も、不釣り合いと思い定め、もう心は動かないが、忘れられてしまうのもさびしいので、源氏の心を引きとめるやりとりをかわす。ゆれる女心だ。源氏もしゃくだと思いつつ忘れがたく、すぐになびきそうなもう一人の女には心が動かない。
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