夕顔物語5
 そこはかとなく書きまぎらはしたるも、あてはかにゆゑづきたれば、いと思ひのほかにをかしうおぼえ給ふ。惟光に、この西なる家には、何人の住むぞと問ひ聞きたりやとの給へば、例のうるさき御心とは思へど、さは申さで、この五六日ここにはべれど、病者
(ばうざ)のことを思ひたまへあつかひはべるほどに、隣のことはえ聞き侍らずなど、はしたなやかにきこゆれば、にくしとこそおもひたれな、されどこの扇の、たづぬべきゆへありて見ゆるを、なほこのあたりの心知れらん者をめして問へとの給へば、入りてこの宿もりなる男(おのこ)を呼びて問ひ聞く。やうめいの介なる人の家になん侍りける。男は田舎にまかりて、女なん若くこと好みて、はらからなど宮仕(づか)へ人にて、来(き)通ふと申す。くはしきことは、下人(しもびと)のえしり侍らぬにやあらんときこゆ。さらばその宮仕へ人ななり。したりがほに物なれていへるかなと、めざましかるべききはにやあらんとおぼせど、さして聞えかかれる心の、にくからず過ぐしがたきぞ、れいのこの方には重からぬ御心なめるかし。
参考図書
 ・駒井鵞静『源氏物語とかな書道』(雄山閣出版、1988年)
〈補足〉
 見ず知らずの名もなき者が「誰ともわからないように」筆跡をごまかして書いてくる必要があるだろうか。仮にそうだとして、読み手がその筆跡を見て、ごまかして書いた筆跡だと判断できるだろうか。通説の解釈は古くから踏襲されているが、明らかに不自然。「書きまぎらはし」は、文字そのものの濃淡や配置が紛れるように書いてあること、つまり散らし書きなどの書法を示す表現。それに「そこはかとなく」が加わることで、はかなげで消え入りそうな筆跡であることがわかる。
これは、はかなく頼りない女の個性と一致する。
女に心惹かれる
[口語訳]
 
はっきりとではなく散らし書きしてあるのも、気高く上品なので、とても意外な感じがして心惹かれる。惟光に、「この西にある家には何者が住むと聞いたか」とおっしゃると、いつものうるさいお心とは思うが、そうは申さず、「この五六日ここにいますが、病人のことに気を取られていますので、隣のことは聞き及びません」など、そっけなく申すので、「にくいと思っているんだろう。しかし、この扇は尋ねるいわくがありそうに思えるので、なおこの辺りの事情のわかる者を呼んで聞け」とおっしゃると、入ってその家の管理人を呼んで聞く。「揚名の介である人の家です。男は田舎にいて、女が若く派手好きで、姉妹などが宮仕え人で出入りしているとのこと。詳しくは下人にわからないのではないでしょうか」と申し上げる。ではその宮仕え人なのだろう。得意顔に物慣れて言うものだなと、あきれるような身分の者ではないかとお思いになるものの、こちらに言って来た意図は憎くもなく見過ごしがたいのは、いつもながらこの方面には重くないお心だからだろう。
[鑑賞]
「書きまぎらはし」について、諸注は、筆跡をごまかして書いてあると誤解しているが、これは、かな文字などの墨付きに濃淡の変化を付けて散らし書きすること(『源氏物語とかな書道』参照)。「そこはかとなく」は、墨が薄く消えそうな文字で書いてあることを言う。
はかなげな文字が書かれている様は、まさに「白露の光」に紛れる白い花「夕顔」を表している。「白い扇」は、白い花と白露を詠んだこの歌を意識した小道具である(4)白い扇と神事)。源氏が最初に目を留めた家の「白」、夕顔の花の「白」、そして歌に詠まれた「白露」、そして「白き扇」のはかなげな文字、すべて白い風景で揃えてある。源氏は、歌の内容にふさわしい書きぶりの気高く上品なさまが、粗末な宿にふさわしくないので、意外に思って女に興味を抱いたのである。一方、惟光は女の歌を見ていないので、源氏が物好きだけで卑しい女に興味を持ったと受け止めている。
 「揚名介」は役職名だが、名目だけの国司の次官。古い注釈書では秘伝として「三箇の大事」と扱われてきた語。

《一般的な解釈》
 他のテキストでは、「誰とも分からないように書き紛らわしているのも」のように、通説の解釈を採っている。
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