夕顔物語10
おほかたにうち見奉る人だに、心しめ奉らぬはなし。ものの情けしらぬ山がつも、花のかげにはなほやすらはまほしきにや。この御光を見奉るあたりは、ほどほどにつけて、わがかなしと思ふ娘を、つかうまつらせばやと願ひ、もしは口惜しからずと思ふ、妹など持たる人は、いやしきにても、なほこの御あたりにさぶらはせんと、思ひよらぬはなかりけり。ましてさりぬべきつゐでの御言の葉も、なつかしき御気色を見たてまつる人の、少しものの心を思ひ知るは、いかがおろかに思ひきこえん、あけくれうちとけてしもおはせぬを、心もとなきことに思べかめり。
光る君と女君たち
[口語訳]
一般に少し見る人でさえ、心奪われない人はいない。情のわからない木こりでも、花のもとで休みたいと思うのだろうか。この君のお姿を見る周りの人々は、それぞれの立場に応じて、可愛い娘を仕えさせたいと願い、自慢の妹を持つ人なら卑しい身分でもやはり源氏の君のおそばに参らせようと思わない人はいない。まして、折りに合った歌や親しみ深いご様子を拝見した人が少しでも情があればおろそかに思うはずはないだろう。毎日うちとけておいでになれないのを物足りなく思うことだろう。
[鑑賞]
 この段を、「絵入源氏」や多くの活字テキストが、前段の霧の朝の場面と別の段落にしているために見落しがちだが、この文章は前段の朝顔の場面(
夕顔物語9)を受けていることに注意したい。「花のかげにはなほやすらはまほしき」は、源氏が前栽の花を見て「過ぎがてにやすらひたまへる」とあったのに呼応する。源氏は中将の君を「うちとけたらぬもてなし」と見たが、中将は「明け暮れうちとけてしもおはせぬ」ことを残念に思う。また、「心しめ」の異文「心とめたてまつらぬ」であれば、中将の歌の「花に心をとめぬ」にも呼応する。ここでは、女が「花」、源氏は「御光」とされているのである。このことからも、最初の「心あてに……」の歌の「白露の光」は源氏の比喩、「夕顔の花」は女の比喩と見なすのが妥当である。
 『源氏目案』に「古今の序の詞也」と指摘する通り、「山がつも、花のかげには」の表現は、古今集仮名序の「大伴の黒主はそのさまいやし、いはば、たきぎ負へる山人の花のかげに休めるがごとし」による。(次へ)