2)紫式部日記より
紫式部日記の記事は、源氏物語の成立を示す根拠としてたびたび取り上げられます。けれども、諸注釈や従来の説明に不十分なところがあるので、私見を述べておきます。まず、有名な記事から。

左衛門の督(かみ)「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがひたまふ。源氏にかかるべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと聞きゐたり。(紫式部日記、寛弘五年十一月一日の記事)


藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子が皇子を出産しました。その敦成親王の五十日(いか)の祝賀で、道長邸に人々が集まり、宴の場において、藤原公任と思われる左衛門の督(頼通と解する説も)が「この辺りに若紫はいますか」と尋ねました。これに対して式部は「源氏にゆかりの人もいないのに、どうして紫の上がいるでしょう」と書いたのです。
ここで言う「若紫」とは、若紫巻で登場する幼い紫の上を指しているはずですが、このことばは物語中の本文に見当たらず巻名のみに見られます。5-1)伊勢物語との相違 従って、巻名「若紫」とその物語は、すでに宮廷に伝わっていたことがわかります。
また、「かの上」の「上」とは、貴人の正妻という意味ではなく、母上や姉上といった女主人に対する敬称であり、紫の上が明石姫君を養育している時期の呼び名です(拙稿「源氏物語の人物呼称」)。この記事によって、少なくとも若紫の巻が伝わり、姫君を引き取る薄雲巻までは執筆されていたことがうかがえます。さらに、『紫式部日記絵詞』(五島美術館蔵)の本文「源氏にる」を「源氏に似る」の誤りと解して「光源氏様に似た(すばらしいお方)」などとする説が一般的ですが、「光源氏」の意味なら「源氏の君」「光る君」「源氏の大将」などと称すべきで、敬称のないことから「源(みなもと)氏」一族を指していると考えられます。つまり、この文章は、道長邸に集まる主立った人々が、「源氏」どころか藤原氏ばかりであることを皮肉ったものと考えることができます。
 次の記事では、彰子が還御に先立ち女房達と物語冊子を作ることが書かれています。

入らせたまふべきことも近うなりぬれど、人々はうちつぎつつ心のどかならぬに、御前には、御冊子(さうし)作りいとなませたまふとて、明けたてばまづ向かひさぶらひて、色々の紙えり整へて、物語の本どもそへつつ所々に文書き配る。かつは綴じ集めしたたむるを役にて明かし暮らす。

一条天皇がまだご存じない新作の巻々を持参しようとしているのでしょう。その冊子を、天皇に献上してしまうのではなく、彰子が天皇とともに物語を楽しもうとしているのだと思います。次の記事では、一条天皇が源氏物語を女房に読ませていると書かれています。

うちの上の、源氏の物語、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、「この人は、日本紀(にほんぎ)をこそ読みたるべけれ、まことに才(ざえ)あるべし」とのたまはせけるを

この場には彰子が天皇の傍にいて、何人かの女房と一緒に源氏物語を聞いています。一つしかない新作の物語を同時に楽しむには音読しかなく、周りの女房たちをも楽しませるためには、誰かに読ませて聞くのが効果的です。源氏物語はこうして少しずつ書き継がれて宮中に持ち込まれ、天皇が物語の続きをお知りになりたくて毎日彰子のところにお通いになったのだと考えます。源氏物語は千夜一夜物語のような役割を担い、彰子と天皇との仲を取り持ったと考えてよいでしょう。9-4)源氏物語の千年
 次の記事では、式部は彰子に白楽天の楽府を教えていると記しています。

宮の御前にて、文集の所々読ませたまひなどして……一昨年の夏ごろより楽府といふ書二巻をぞ、しどけなながら教えたてきこえさせてはべる、隠しはべり。

人に隠しているのですから、式部の仕事の中心は、彰子の家庭教師ではなく物語の執筆であったと考えられます。漢詩文の素養ある一条天皇との話題に事欠かないため、漢詩文を取り入れた源氏物語の内容を理解するためにも、彰子はその物語作者から教えを受けたのでしょう。こうした努力が実って、彰子は一条天皇にふさわしい理想的な教養ある后に成長していったのです。
 次の記事では、道長が式部の部屋を探して、隠しておいた物語を「内侍の督の殿」妍子(彰子の妹)に渡した、とあります。

局に、物語の本ども取りにやりて隠し置きたるを、御前にあるほどに、やをらおはしまいてあさらせたまひて、みな内侍(ないし)の督(かん)の殿に奉りたまひてけり。よろしう書きかへたりしは、みなひきうしなひて、心もとなき名をぞとりはべりけむかし。

どの巻かは不明ですが、やはり源氏物語の一部だと考えるのが自然です。妍子は、寛弘7年(1010)、16歳で東宮居貞親王(後の三条天皇)に入内するので、妍子のお后教育や入内の準備だったのでしょう。
 次の記事では、「源氏の物語」が彰子の御前にあるのを、道長が見て、梅の実を置いた紙に「すきもの」と詠む歌を書いて式部に送ってきた、とあります。

源氏の物語、御前にあるを、殿のご覧じて、例のすずろごとども出で来たるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる。
すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ
たまはせたれば、
人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ
めざましう、と聞ゆ。

以上の記事から、源氏物語の作者が紫式部であること、スポンサーが道長であること、最初の読者は彰子と一条天皇、そして妍子であったことが推測できます。そして、先に触れた通り、「源氏」は光源氏個人を指す呼称ではないので、「源氏の物語」という書名も、光源氏の物語という意味ではなく、源(みなもと)氏の物語と解するのがよいと思います。

 参考図書
 ・清水婦久子「源氏物語の千年」(京都文化博物館『源氏物語千年紀展』、2008年)
 
清水婦久子『源氏物語の真相』(角川選書、2010年)
 
・清水婦久子「源氏物語の読者たち―成立に関わって―」(武蔵野書院「むらさき」、2013年)
 ・清水婦久子『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』(和泉書院、2014年)
1『源氏物語の真相』

この書の第三部「源氏物語成立の真相」にも、同趣旨のことを書きましたが、日記についての論証を省略したところもありましたので、あらためて近著『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』で書きました。考え方の基本は『源氏物語千年紀展』図録の総論「源氏物語の千年」が初出です。
2『国宝「源氏物語絵巻」を読む』
1の表紙の図版は、この書に掲載した「木版本源氏物語絵巻」です。国宝絵巻(徳川本・五島本)を昭和30年代に木版複製したものを紹介し、『絵巻』の真価について述べた書です。『絵巻』の詞書をはじめて全訳し、詞書の表現と絵とを合わせて鑑賞することのできる書物にしました。絵と詞書はすべてカラー掲載なので、2900円は安価です。
〈姫君たちと源氏物語〉
 源氏物語の千年」の「木版本『源氏物語』『絵巻』 東屋一」の説明でも書きましたが、この場面は、右近という女房に「詞(ことば)読ませて(絵を)見」る場面です。上の著書2冊の表紙に同じ絵を使用した意図は、2つあります。1つは、古代の物語がこのように「音読」(朗読)によって鑑賞された、ということ、もう1つは、絵とともに鑑賞された、ということです。
 音読によって、姫君のみならず、周りの女房も恩恵を受けることができますし、天皇の后とが同時に物語世界を楽しむことができます。最初の読者である一条天皇と中宮彰子の場合は、源氏物語の鑑賞に絵を必要としたわけではありません。紫式部日記にも物語に絵が添えられたとは記されていませんから、あくまでも物語本文のみが音読され鑑賞されたのです。それは一条天皇と彰子とが高教養を持っていたことと、舞台が宮中であり、お二人の周りに実際にあった出来事や歌や資料に基づいていたことから、源氏物語の内容を十分に理解し得たのだと想像できます。理解できないところがあれば、作者自身に質問し、時に白氏文集を教わるなどして、理解を深めることができました。
 それに対して、宮中を知らない人々のためには、その舞台を描いた絵が必要となりますから、読者の層が広くなり、時代が隔たるにつれて、源氏物語は絵画とともに鑑賞されるようになります。『源氏物語絵巻』は、宮中をよく知る高貴な姫君のために作られた作品ですが、源氏物語成立から150年ほど後に作られたものですから、絵を必要とされたのでしょう。この頃から源氏物語は「古典」として、人々の教養を高める書物として書写されるようになり、注釈書も多く書かれるようになります。そして物語の本文が難解で理解しにくくなるにつれ、理解を補う絵画作品が数多く作られます。
 江戸時代に多く作られた源氏物語屏風は、源氏物語の名場面が数多く描かれています。これは、ただ部屋を美しく飾っただけでなく、姫君が「嫁入り本」として持参した源氏物語の本の目次や索引の代わりにもなったと考えられます。姫君は、絵に描かれた人物や景物に注目し、気に入った場面があれば物語の本を取り出しますが、おそらく黙読したのではなく、この時にも教養ある侍女が音読し、時に解説を受けたのだと思います。彰子は、教養高い一条天皇の后にふさわしい女性になるために鑑賞しましたが、それに倣って、大名や貴族の姫君もまた、玉の輿にふさわしい女君になるべく、源氏物語で多くのことを学んだのだと思います。