3)なぜ哀傷の物語?
古典の名作の多くは、1)藤原道長のため?の〈高貴な読者たち〉で書いた通り、天皇家や摂関家の子女のために作られました。古代の物語において重要なことは、誰が書いたか、よりも、誰のために、なぜ書かれたのか、という問いかけなのです。紫式部が自分の考えで書いた、と説明することは間違いではありませんが、物語作家の自由意志のみに注目すると、この大作の真価を理解することはできません。本居宣長は寛政八年(1796)の『玉の小櫛』で、源氏物語を「もののあはれ」の文学と評し、源氏物語は「あはれ」の文学、枕草子は「をかし」の文学、と対比されます。この違いは紫式部と清少納言の個性によると安易に説明されることも多いのですが、こんな説明をされて喜ぶ作家がいるでしょうか。なぜそのような作品が書かれたのか、「あはれ」とは何なのか、という問いかけが大切です。これはむしろ当時の歴史と深く関わると考えるのが妥当でしょう。
清少納言が仕えていた藤原定子は一条天皇の中宮でしたが、長徳五年(999)に兄弟の藤原伊周・隆家が花山院に弓を射て逮捕左遷された「長徳の変」の折に剃髪し、栄華を極めた一家は没落しました。枕草子には、定子の父道隆が関白として権勢をふるっていた時期から、定子が亡くなる長保二年(一〇〇〇)までの出来事が書かれています。その枕草子が明るい話題、とりわけ定子の優しさや教養を取り上げて描いているのは、清少納言の感傷だけではなかったはずです。定子をはじめとする中関白家の人々の鎮魂と、一条天皇および定子の遺した皇子たちへのメッセージではないでしょうか。一方、源氏物語は、その数年後、藤原道長が権勢を極めていた時期に書かれましたが、こちらはむしろ「あはれ」な場面、人が亡くなり、遺された人が悲しむ〈哀傷〉の場面が多く描かれます。源氏物語の絵画作品に華美な場面が目立つせいか、「絢爛豪華な王朝絵巻」などと評されますが、実際に源氏物語の文章を読んだ人なら、愛する人が次々と亡くなり、遺された主人公が悲しむ姿が長々と語られることをご存じのはずです。
桐壺巻の「野分の段」では、最愛の桐壺更衣を亡くして悲しむ帝の姿が描かれます。この文章は、楊貴妃の死を悲しむ玄宗皇帝の思いを詠んだ漢詩「長恨歌」と説話「長恨歌伝」を基にして作られています。これについて、紫式部が漢詩文を得意としていたから白居易の漢詩集『白氏文集』を翻案したと説明されますが、それだけではありません。この物語の第一の読者は藤原彰子であり一条天皇でした。彰子は入内したとき12歳でしたが、一条天皇は20歳で、天皇は最愛の后である定子を亡くし、三人の遺児がいました。亡くなった桐壺更衣と光る君、帝と後に入内する藤壺宮という、桐壺巻の設定は、現実における定子とその遺児、一条天皇と彰子に一致します。これは何を意味するでしょうか。紫式部が同時代の出来事を題材にして物語を創作したということでしょうか。そうではありません。当代の天皇の体験をそのまま作品に仕立てて公表できる作家がいるでしょうか。現代でも禁忌、不敬とされるでしょう。私は次のように考えています。
 この物語は、彰子のために書かれたもので、一般の読者を対象としたものではない、ということです。幼い彰子は、定子皇后を亡くした一条天皇の悲しみを理解し共感し慰める必要がありました。そのための教科書として書かれたのが哀傷の物語だったと考えられます。かたや一条天皇は、亡くなった定子を偲びながらも、新しい后を愛し、遺された御子を教育する必要がありました。桐壺巻には、哀傷の場面とともに、光る君を「源氏になしたてまつる」賢明な帝が描かれます。一条天皇には定子剃髪直後に生まれた「一の宮」敦康親王がいましたので、この御子の処遇も問題でした。紫式部日記によると、寛弘五年(1008)には源氏物語執筆中なので、書き始められたのは、彰子に懐妊の兆しがなく、敦康親王が幼い頃(ちょうど桐壺巻の光る君と同じ)と考えられます。これほどまでに一致している出来事を「準拠」として創作することができたのは、それを許されたからであり、外部の一般読者に公開するのではなく、当のご本人たちを慰め励まし教育するためだったから、と考えるべきです。状況が「似ている」のは偶然などではありません。わざわざ「似せる」ことによって、物語によって天皇と后はともに泣き、愛を深めるのです。枕草子が、過ぎ去った美しい日々を懐かしんだのとは逆に、源氏物語は、忘れがたい現実の悲しみを受け入れつつ未来に向かうための指針を示したのでしょう。決して、天皇への不敬となる物語を書いて公表したのではなく、書かれた当初は、天皇と后の幸せを願って書かれた門外不出の物語であったと、私は考えます。
桐壺巻の後にも、源氏物語では、夕顔、葵上、藤壺宮、紫の上、そして宇治大君と、主人公が愛した女君が亡くなり、遺された男君は嘆き悲しみます。女性の死が多かった時代とはいえ、これほどまでに徹底して女君の死を描き、哀傷の場面を繰り返すのもまた、天皇の体験と重なっていたからです。一条天皇は、定子亡き後、敦康親王の養育係であった定子の妹四の君(御匣殿)を愛し懐妊させますが、長保四年1002六月に四の君は亡くなります。藤壺と光る君が親しくなった経緯を語る桐壺巻の文章と、天皇と四の君が親しくなった経緯を語る栄花物語の文章の表現が似ているのは、この出来事を想起させる意図があったかもしれません。一条天皇だけではありません。当時の皇太子居貞親王(後の三条天皇)の妃であった原子も定子の妹で、四の君の死から二ヶ月後、鼻口から出血して急死(権記「頓滅」)しました。仮に二人の女君が皇子を出産すれば、失脚した伊周が後見役として復活する可能性がありましたが、かないませんでした。そして、一条天皇には彰子が、三条天皇には彰子の妹である妍子が中宮となり、道長家の権勢は確立します。三条天皇は宣耀殿女御藤原娀子(済時女)を寵愛していましたが、娀子側の人物が原子暗殺の犯人だという噂を語る栄花物語の記事は、桐壺巻における弘徽殿女御の存在を想起させます。この他にも、桐壺の更衣の設定に似た史実として、仁明天皇の女御藤原沢子、花山天皇女御忯子などが指摘されています。従って、誰をモデルにしたのか、史実の何を準拠としたのか、という題材としてではなく、天皇と后の絆を深めるため、天皇を引きつけるためにこそ、同じ設定で書かれる必要がありました。漢詩文を積極的に取り入れたのも、歴史を踏まえていたのも、高度な表現も、高い教養の天皇を対象としたからでした。道長家の繁栄の影には、亡くなった人々、滅びた一族がありました。近い時代には中関白家、遡れば、安和の変で失脚した源高明をはじめとする源氏一族の鎮魂があり、敗者の美学を語るのが文学の大きな役割であったと思います。藤原道長全盛期ゆえにこそ、「源氏の物語」は亡くなった人々を美しく描き、遺された人々を慰める役割を果たしたのです。道長が病や物の怪に苦しみながら亡くなったのとは対照的に、源氏物語のよき読者であった彰子は、義理の子敦康親王を慈しみ、天皇となった子や孫を教育する立派な国母として大往生を果たしました。
1「絵入源氏物語」葵巻

葵上の葬送後、源氏は月をながめて哀傷歌「のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな」と詠む
2「絵入源氏物語」薄雲巻
藤壺の葬送後、源氏は山をながめて哀傷歌「入り日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる」と詠む
3「絵入源氏物語」幻巻

紫の上泣き後、源氏は雁をながめて「大空をかよふまぼろし夢にだにみえこぬたまの行方たづねよ」と詠む
参考図書
・清水婦久子「源氏物語の千年」(京都文化博物館『源氏物語千年紀展』、2008年)
・「源氏の物語とは何か 1~7」(関西テレビ☆京都チャンネル、2008年)
・清水婦久子『源氏物語の真相』(角川選書、2010年)
・「BS歴史館 源氏物語誕生の秘密」(NHKBSプレミアム、2012年)
・清水婦久子『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』(和泉書院、2014年)