1)藤原道長のため?
源氏物語は、紫式部が自分のために書いたとか、同僚の女房のために書いた、などと説明されることがあります。また、最初は自分自身の慰めのために書いていたが、藤原道長の目にとまり、出仕して書いているうちに、同僚の女房達の間で評判になり、女房達のためにも書き続けるようになった、といった説明も、テレビ番組などで耳にすることがあります。実は、こうした説に根拠はありません。どこからそんな答えが出てくるのか不思議でなりません。現在にまで伝わる「古典」は、単なる古文ではなく、典拠とすべき作品という意味であり、それらは高貴な方々を教育するためのものでした。今でこそ、源氏物語は誰でもその気になれば(活字本で)読むことができますが、もとは天皇家と摂関家のみで読まれた作品だったのです。
角川選書『源氏物語の真相』が刊行された2010年4月に付けられた帯に、次の文が印刷されました。(左図)
   
源氏物語は藤原道長のために書かれた?!
源氏物語は、藤原彰子が一条天皇の愛を得て皇子を産むことを願って作られたものである、という話を私がすると、藤原道長が権力を得るために紫式部に物語を書かせた、源氏物語は道長の栄華完成のための道具であった、などと言い換えられてしまいます。帯の文言「源氏物語は藤原道長のために書かれた」にも、そうしたニュアンスがあったので、私は、せめて「?」を付けて下さいとお願いしました。紫式部の雇い主は道長であり、物語を依頼した(命じた)のは道長であったはずです。そして結果として道長は権力を得ましたから、源氏物語は道長の権力掌握に大きな役割を果たしたと言えます。ただし、ここまで言うと、歴史の専門家からは批判を受けることでしょう。なぜなら、源氏物語の役割に触れた歴史の文献は見当たらないからです。私も源氏物語を歴史(政治史)の表舞台に出そうとしているわけではありません。そもそも文学には、政治や権力に介入する役割はないからです。文学(特に名作)は、人の心を動かし、長い時間をかけて人格を育成(熟成)する役割があります。源氏物語が作られた時、藤原道長は既に権力者であり立派な大人でしたから、「道長のために」書かれたわけではありません。
当時の物語の多くは、婦女子「のために」作られました。ただ娯楽のためでなく、良質な作品は教育に用いられました。貴族の男子には、7歳で「学問(ふみ)はじめ」が行われて漢詩文を学び、「大学」もありました。かたや女子は、家庭において「琴ならはし(習得)」や和歌や手芸を学びます。現代の国語の教科書に匹敵するのは、書写された古今和歌集など歌集でした。姫君たちは、古今集を書写し暗誦して国字であるかなの読み書きと和歌を学びました。これによってコミュニケーションの方法を会得しますが、男女の機微や政治向きのことは、たとえ優秀な家庭教師がいても十分に理解できません。そこで源氏物語が大きな役割を果たしたのです。許されざる恋、かなわぬ恋、苦しい恋、愛する人との別れ、孤独の悲しみ、政治的抗争……等々、深窓の姫君が経験し得ない様々な状況が物語の中にあり、そこで歌が詠み交わされます。どんな時にどんな歌を贈ればよいのか、どんな文をどんな景物に託して送ればよいのか、悲しみに暮れる人をどのように慰めればよいのか……源氏物語には、それらの多様な場面・状況が具体的に描かれています。物語世界に没頭し追体験しているうちに、未熟な姫君は美しい物語の美しい心の女君(ヒロイン)になって、少しずつ成長します。ここにこそ文学の役割があるのです。
源氏物語は、12歳で天皇の后となった彰子を、立派な国母(天皇の母皇后)となるように教育するための教科書であったと言ってよいのです。実際、彰子の詠歌には、源氏物語の影響を受けたものが多く見られます。あらためて結論を書きます。
   
源氏物語は藤原道長の娘・彰子のために書かれた
これが正解です。ただし、彰子(一条天皇の中宮)のためだけでなく、後には妹の妍子(三条天皇の中宮)のため、さらには、頼通(後の関白)のために書かれた巻もあったと思います。まだ試案にすぎませんが、例えば若紫巻は彰子のため、玉鬘巻は妍子のため、夕霧巻は頼通のために書かれたものかもしれない、などと考えています。

 参考図書
 ・清水婦久子「源氏物語の千年」(京都文化博物館『源氏物語千年紀展』、2008年)
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「源氏の物語とは何か 1~7」(関西テレビ☆京都チャンネル、2008年)
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清水婦久子『源氏物語の真相』(角川選書、2010年)
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「BS歴史館 源氏物語誕生の秘密」(BSプレミアム、2012年)
 ・ 清水婦久子「源氏物語の読者たち
―成立に関わって―」(武蔵野書院「むらさき」、2013年)
 ・清水婦久子『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』(和泉書院、2014年)
1『源氏物語の真相』
2010年4月刊行時の帯
はじめは、拙論に基づいた広告文が記載されていました。
源氏物語は藤原道長のために書かれた?
!
恋愛長編小説としてではない物語の役割や成立の真相を、歴史や和歌の追究から探る!

この帯が2015年春に復活しました。この書は近いうちにデジタル版としての発行されるそうで、いま準備中です。
2『源氏物語の真相』
2011年映画広告用帯
この帯は私の知らない間に付けられ市販されていました。みなさん、購入時の帯は大切に保管しましょう。二度と入手できないかもしれません。

映画において、源氏物語によって彰子が天皇に愛されるようになるところと、物語の原稿を音読するところは、拙著の内容と重なるのですが、道長を前面に出した点は、私の考えと異なります。
〈高貴な読者たち〉
文学だけではなく、「古典」と称される美術・工芸なども、一般庶民や受領層のために作られたものはなく、天皇家や摂関家の子女のために作られたものばかりです。
文学作品で言えば、最古の辞書『和名類聚抄』は、源順(したがふ)が編纂しましたが、誰のために作られたのかはあまり知られていません。文学史では専ら著書を問題にしますが、大切なのは著者ではなく読者なのです。この辞書は、醍醐天皇の息女・勤子内親王のために作られたものなのです。辞書が一人の高貴な姫君のために作られたのです。このことは源順による序文に明記されています。
順の弟子であった源為憲が著した仏教説話『三宝絵詞』はどうでしょうか。絵詞とありますので、もとは絵本(絵巻のようなもの)だったはずですが、現在は詞のみが伝わります。これも序文により、読者が明らかです。冷泉天皇の息女・尊子内親王です。円融天皇の後宮に入ったとたんに内裏が火事に遭い「火の宮」という汚名を着せられ、18歳で出家した悲劇の女宮です。その修行の助けにと、絵を添えてわかりやすく仏の道を説いたものでした。為憲は他にも、九条右大臣師輔の子・為光に依頼され、7歳の子息のために『口遊(くちすさび)』を著しています。
さらに晩年の寛弘四年(1007)には、藤原道長の依頼でことわざ集成『世俗諺文』を編纂しますが、これこそ16歳であった藤原頼通のために作られたものでした。天皇家や摂関家では、子息や姫君、たった一人の高貴な読者のために書物を作成したのです。息子の頼通のために辞書を作らせた道長ですが、ちょうど同じ頃、娘の彰子(そして妍子)のために源氏物語を作らせたのです。