4)時代背景
歴史上の人物の系図は、現代から見て過去の人物関係を示しているため、一見、定子と彰子が一条天皇をはさんで長くライバル関係であったようにも見えますが、実際はほとんど接する機会がありませんでした。まして、その女房であった清少納言と紫式部との接触はありません。清少納言は、定子亡き後、宮廷を辞したらしく、一方、その頃の紫式部は、宣孝と結婚して娘を出産したばかりであり、宮仕えは1005年以後とされます。
従って、紫式部が日記の中で清少納言を痛烈に批判したのは、『枕草子』に見られる「香炉峰の雪」の段で見せたような(式部曰く)軽い知識をひけらかす様を、自戒をこめて述べたものと、考えるべきでしょう。
清少納言と紫式部がライバルだとか、式部は清少納言に勝ちたいと思って源氏物語を書いた、などといった説明は、後世の人が、(ほぼ)同時代の、ライバル関係にあった家に仕えていた二人の作家として比較したものにすぎません。個人的なライバル意識よりも、家の繁栄を願う気持ちの表れと考えた方がよいでしょう。その点では、『枕草子』が書かれたのも、定子の家が没落したのを目の当たりにして、清少納言は華やかなりし定子の姿、道隆家の様子をことさらに明るく描いてみせようとしたからと考えることもできます。
清少納言の見た宮廷の出来事を系図の形にしてみました。

兄弟関係を示す縦線がうまく書けないので省いています。ご容赦を。
【999~1002年】
         ―御匣殿(四の君)1002没
         ―原子(東宮妃)1002没
  藤原道隆――伊周 996太宰府に左遷 ①
         ―定子(中宮→皇后)990入内・996落飾・1000没(24歳)④
           |――敦康親王 999誕生③
         一条天皇(20歳)
           |
         ―彰子(中宮)999入内(12歳)②
  藤原道長――頼通(関白)
         ―妍子
         ―威子999誕生
出来事
①長徳二年996春、藤原伊周失脚
~このとき中宮定子落飾 《中関白家の没落》
伊周の様子を栄花物語(浦々の別れ)では「光源氏もかくやありけむ」と語られる(時間は前後逆)。→ 須磨巻の光源氏
②長保元年999十一月一日、藤原彰子入内、藤壺に入る(栄花物語「輝く藤壺」)→桐壺巻「藤壺の宮」
③長保元年999十一月七日、敦康親王(一の宮)誕生→ 「玉の男御子」
④長保二年1000十二月十五日、定子皇后の死~一条天皇の悲嘆
→桐壺巻「野分の段」(「壺前栽」の巻)
⑤長保三年1001彰子、敦康親王の養母となる
→桐壺巻「輝く日の宮」と「光る君」
⑥長保三年1001紫式部の夫・宣孝の死~紫式部の悲嘆 ※長恨歌(玄宗皇帝の悲嘆)
⑦長保四年1002六月、定子の妹四の君(敦康親王の養育係)の死~一条天皇の悲嘆→桐壺巻の文章
⑧長保四年1002八月、定子の妹原子(居貞親王東宮妃「淑景舎の女御」)急死→巻名「桐壺」(桐壺=淑景舎)

 参考図書
 ・清水婦久子「源氏物語の千年」(京都文化博物館『源氏物語千年紀展』、2008年)
 ・
「源氏の物語とは何か 1~7」(関西テレビ☆京都チャンネル、2008年)
 ・
清水婦久子『源氏物語の真相』(角川選書、2010年)
 ・
「BS歴史館 源氏物語誕生の秘密」(BSプレミアム、2012年)
 ・ 清水婦久子「源氏物語の読者たち
―成立に関わって―」(武蔵野書院「むらさき」、2013年)
 ・清水婦久子『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』(和泉書院、2014年)
桐壺巻には「壺前栽の巻」という別名が伝わる。通説では桐壺巻の文「御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるをご覧ずるやうにて」から抜き出されたと説明するが、「壺前栽」を題材とした物語を作ろうとした名残ではないかと私は推測している。その理由は、清涼殿で行われた内裏前栽合(歌合)の別名を「壺前栽の宴」と言い、栄花物語の第一巻「月の宴」で描かれる村上天皇主催の月見の宴のことを指すことと、桐壺巻の歌が、内裏前栽合で詠まれた歌を本歌としているから。
「壺前栽の宴」という語は、源氏物語の野分巻にもある。清少納言の父・清原元輔の歌集に「壺前栽の宴」のために依頼された歌として、桐壺巻の歌とよく似た歌が見られることから、桐壺巻の「野分の段」は、壺前栽の宴を意識して作られたと考えた。
1「絵入源氏物語」桐壺
帝は壺前栽の秋草をながめながら、長恨歌やその屏風歌などを女房に読ませる(上図)
2.絵入「栄花物語」月宴
村上天皇は康保三年966、亡き中宮安子を偲びながら、月の宴を催された。内裏前栽合である(下図)
 
源氏物語が更衣の死で始まり、長恨歌を基にして作られていることは、紫式部が夫・藤原宣孝を亡くしたことと深く関わっていると考えます。式部自身が愛する人を亡くした悲しみを知っていて、長恨歌や哀傷歌などに親しむことで慰められていた体験を踏まえて、桐壺帝の様子を語る文章「このころ明け暮れご覧ずる長恨歌の御絵、亭子院のかかせたまひて、伊勢、貫之によませたまへる大和言の葉をも、ただその筋をぞ枕言にせさせたまふ」(桐壺巻)ができたのでしょう。そして、桐壺の物語が、桐壺帝・玄宗皇帝と同じく、愛する妃・定子とその妹を相次いで亡くした一条天皇を慰め、同時に世間知らずの幼い中宮・彰子の成長を促す役割を果たしたのではないでしょうか。
また、道長が、式部の部屋から源氏物語の一部を持ち出し、皇太子・居貞親王(後の三条天皇)の妃となる姸子に与えたのも、同じ頃に東宮妃・淑景舎女御を亡くした親王を慰めるものになることを期待したからではないかと考えます。
源氏物語に哀傷の場面がきわめて多いのは、作られたきっかけが哀傷・鎮魂を目的としていたからではないかと私は考えました。桐壺巻の成立については、拙著『源氏物語の真相』第三部「源氏物語成立の真相」で詳述しています。基本的な考えは変わっていませんが、『源氏物語の巻名と和歌』では、光源氏と紫の上の年齢差がちょうど一条天皇と称しの年齢差と一致することや、一条天皇・三条天皇の最初の妃(おそらく「添い臥し」)が、葵上や六条御息所、そして藤壺と同じく4歳ほど年上であることなど、当時の天皇や東宮の結婚を踏まえた設定であることなどにも注目して論じています。主人公の年齢差の一致に気づき、2012年にはNHK「BS歴史館 源氏物語誕生の秘密」に出演した時に初めて説明しました。