7偉大な恩師
 実は、1パリで源氏物語などでご紹介したイナルコと、「源氏物語千年紀展」(9-1)二つの源氏物語展)の両方に関わっておられたのが、大阪女子大学名誉教授の片桐洋一先生でした。伊勢物語や古今集をはじめとする古典研究の第一人者で、一昨年、文化功労者になられました。京都の紫式部研究家として著名な角田文衞先生が、片桐先生に、紫式部顕彰会の源氏物語千年紀事業の最初の成果『源氏物語と紫式部―研究の軌跡』の編集長を依頼なさったそうです。また、同じ頃に準備が始まった「源氏物語千年紀展」の企画委員長も、片桐先生が務められました。前者は研究者15名が集まって編集しましたが、後者の展示企画には、文化博物館・文化庁のOBである藤本孝一氏、徳川美術館の四辻秀紀氏、五島美術館の名児耶明氏、そして野口剛氏をはじめとする文化博物館の学芸員という、展示の専門家が企画委員として居並ぶなか、源氏物語を専門とする私には図録の編集や展示構成のアドバイス役を任せてくださいました。片桐先生は京都大学ご出身ですが、住所も勤務先も京都ではなく学者肌だからでしょうか、知る人ぞ知るという存在です。京都でのお仕事としては、陽明文庫の貴重書を影印・活字で紹介した陽明叢書(思文閣出版)、冷泉家の時雨亭文庫を整理した時雨亭叢書(朝日新聞社)といった重要な仕事の中心人物ですが、一般の方々には馴染みが薄いかもしれません。本物の学者は目立つ必要などないのですが、「にわか源氏」が思いつきを語っているのを聞くにつけ、偉大な学者ほど大衆の前に出てもっと発言していただければと思いました。寺田澄江さんやエステル・レジェリー=ボエールさんなど、イナルコの研究者に強い影響を与えたのも片桐先生で、先生がイナルコで集中講義をなさったことで、お二人は強く影響を受けたと聞きました。私をパリに導いてくださったのは、直接にはエステルさんと寺田さんですが、間接的には片桐先生だと思っています。
 プロフィールからお気づきでしょうが、私は片桐先生から国文学の研究方法を教わりました。学部時代の指導教授は、源氏物語研究で著名な玉上琢彌先生(清水好子氏の恩師でもある)で、卒業論文は玉上先生のご指導を受けて仕上げました。そして玉上先生が定年退職なさったあと、大学院では片桐先生の指導を受けました。大阪府の財政難で大阪府立大学に統合された大阪女子大学ですが、当時は、豪華教授陣を誇っていたのです。まだセンター試験どころか共通一次もなかった時代でしたので、国立大学受験を勧める母校(四條畷高校)の担任教師の反対を押し切って大阪女子大学国文学科に進学し、最高の源氏学者・古典学者の指導を受けることができました。そして幸運にも卒業時に大学院が創設され、一期生として入学し、中古文学会大会に大学院の宣伝マンとしてデビューしました。
 片桐先生は、源氏物語について縁の下の力持ちともいうべきお仕事をして来られました。知る人は少ないのですが、『陽明叢書源氏物語』の企画編集をなさり、各巻の解題の執筆者をお選びになったのも先生でした。先生は全巻を調査して桐壺から若紫の5巻の翻刻を細かく点検したあと、末摘花から夢浮橋までの49巻の校正の仕事を私に与えてくださいました。
 さらに、近世版本研究の重要性を教えて下さいました。伊勢物語について、先生は、嵯峨本から江戸時代に普及した木版本、そして絵画作品に至るまで、広く深く研究し、各地の美術館や博物館の展示企画に関わってこられました。源氏物語についても、『湖月抄』に先立つ源氏物語テキスト『首書源氏物語』を初めて影印本で紹介されました。この本においても、先生は全国の研究者を各巻の編者として依頼されました。先生は、『首書源氏物語』と同時代に出版された源氏物語の版本に挿絵のあることに注目し、その影印本に巻末付録「江戸時代の『源氏物語』版本の挿絵」を添えることを企画なさり、私にその編集・執筆と、『首書源氏物語』原本の点検の仕事も与えてくださいました。このサイトの「資料紹介」において、文学的研究と書誌学的研究の両方が必要であると書きましたが、そのことを教えて下さったのは片桐先生です。本そのものを研究する楽しさ、様々な資料や挿絵から源氏物語の読解が深まることなど、大学と大学院において伝授されたものです。皆さんもぜひ、大学で良い恩師に出会い、正統の良い指導を受けていただければと願っています。
 片桐先生は、1986年の堺市美術館の源氏物語展など、後の展示に大きな影響を与えるお仕事をして来られ、2008年の最大の展示「源氏物語千年紀展」の企画委員長として、各地の国宝・重文を含む幅広い美術作品・貴重書を京都文化博物館に集めることに尽力されました。結果として、全国で行われた千年紀のイベントで最大規模、入場者も多かったのですが、それだけでなく、地元の骨董屋さんが「今度のブンパクは違う」と口コミで見に来て下さったと漏れ聞きました。私が企画委員を依頼されたのは、源氏物語の享受史(絵画や版本)を研究していたからですが、片桐先生から教わった学問研究を、玉上先生から受け継いだ源氏物語研究に活かしたものに他なりません。お二人の恩師ほどの力はありませんが、大学における学問のすばらしさを少しでも世の中に伝えてゆきたいと、微力ながら活動しています。

参考図書
   ・紫式部顕彰会編『源氏物語と紫式部 研究の軌跡』(角川学芸出版、2008年)
   ・『冷泉家時雨亭叢書』(朝日新聞社、1992年~2008年)後に別巻も刊行
       ・『陽明叢書 国書篇 第16輯 源氏物語』(思文閣出版、1979~1982年

   ・片桐洋一編『首書源氏物語 総論・桐壺』(和泉書院、1980年初版)

   ・『源氏物語の絵画』(堺市美術館、1986年)
   ・吉田幸一『絵入本源氏物語考』(青裳堂書店、1987年)
1『陽明叢書源氏物語』初校刷
赤字が私の書き込みです。毎月何十頁もの青焼きと校正刷りが届きました。
 
2『陽明叢書源氏物語』青焼き
この時代は青焼き写真が主流 。特有の臭いがあり、つわりの時期には作業が辛く、やめたいと弱音を吐きましたが、片桐先生の励ましによって最後まで続けることができました。
 
3影印叢書『首書源氏物語』
寛文十三年(1673)刊『首書源氏物語』の歴史的意義を明らかにした総論、桐壺巻の本文が三条西家本系統であることなど、以後の源氏物語研究に大きな影響を与えました。大阪で会社を興した和泉書院の最初のシリーズ。
4影印叢書『首書源氏物語』巻末「(付録)江戸時代の『源氏物語』版本の挿絵」
同場面を描いた版本の挿絵を比較して解説。この仕事が、後の拙著『源氏物語版本の研究』や「源氏物語千年紀展」図録の編集に繋がりました。吉田幸一氏の『絵入本源氏物語考』に先立つ画期的な企画です。
〈補足〉
 『陽明叢書源氏物語』各巻の解題執筆者には、著名な源氏物語研究者が名を連ねていますが、
あらためて本文を再点検する必要を感じています。この本文は、現在の活字本の底本である大島本や明融本よりも古い系統の本文を含む注目すべき古写本です。『陽明叢書 源氏物語』の写真版は不鮮明ですが、それでも点検は可能ですから、若い研究者も取り組んでいただければ幸いです。もちろん原本を再調査してくださることは大歓迎です。