4 光源氏と夕顔
 源氏物語の本文と現代語訳(口語訳)は、インターネットにもさまざまなものが掲載されています。中でも、渋谷栄一氏による「源氏物語の世界」は、自由に利用して下さい、という宣言がなされ、信頼すべき本文が複数提供され、現代語訳まで付けられたありがたいサイトです。一般的な理解に基づいて源氏物語を読み進めるには、このサイトは有益で、もはや活字テキストを印刷した書籍はなくても済みそうにも思われます。現に、多くの方々が、このサイトのデータを基にして、さらに有益かつ便利なデータを作成してくださっています。とりわけ、宮脇文経氏の「源氏物語の世界 再編集版」において「絵入源氏物語」の挿絵と本文とを対照してくださった部分は、物語の場面理解を促すだけでなく、和歌や文章表現と美術の両面からの理解を促す効果的な方法だと思います。文字通り、どこからでも、どの端末でも参照できるデータベースは、本格的な研究の前に参照するのに便利ですので、学生にも紹介しています。ネット利用を厳禁とする教授もありますが、この時代にネットを一切使うなとは無茶な話です。それよりも、有益なものとそうでないものとを見分ける目を養うことが大切です。かつて漫画はすべて低俗とする大人が多かったのですが、それこそ優れた漫画を知らない人の発言です。それと同様、ネットからのコピペだけで論文を書いてはいけませんが、参考資料として(どのサイトからの引用か明記して)大いに活用したいものです。
 本サイト「奈良で源氏物語」において、著作権について触れているのは、私独自の説が多く含まれているからです。いつか著作者など意識する必要がなくなるほどに、ここに記載した内容が一般的になればよいのですが、少なくとも20世紀に広まった通説と、私がここで表明していることは異なります。決して特殊な説ではないのですが、一般に知られている夕顔像や、源氏物語の成立に関する通説とは異なります。従って、誰の説かを明記しなければ、話がややこしくなります。十分に指導されていない学生の中には、いくつかの本からつまみ食いのように様々な説を混ぜて「自分なりの」解釈を作る者がいます。同じ考えで言い回しが異なるだけなら問題はありませんが、明らかに異なる説を混ぜてなんとなく口当たりのよい表現に変えたものをオリジナルとするのは論外です。学生には、別解釈の説を下手に混ぜるなかれ
「混ぜるな危険!」と言っています。
 夕顔の歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」の場合、「夕顔」を源氏の顔とする通説(A説・本居宣長説)と、女の顔の比喩とする説(BCD説)のうちB説(細流抄・玉上琢彌説)とでは明らかに異なるにも関わらず、いずれも源氏の正体を言い当てたという点で同一視されています。最も異なるのは頭中将と見誤ったとするC説(中近世の一説・黒須重彦説)で、巷ではA説とC説だけがあるように思われています。D説は私が提唱する説で、称名院三条西公条が主張していたのですが、三条西実隆の『細流抄』が近世で重視されたことから、C説のみが中世の説とされ、それに反論した宣長説が文法的にも正しい説と受け止められ、20世紀の通説となりました。研究者の間では、夕顔の歌の解釈に諸説あることは知られているため、高等学校の教科書に問題の部分が引用されることはありませんが、広く出回っている活字本がACいずれかの説であることから、AB両者が混同されたまま今日に至ったのです。これに類することは、他の部分にも見られ、特に和歌の解釈については未解決のものが多いのですが、夕顔の場合は、この歌の理解によって、夕顔の人物像がひどく誤解され、「娼婦性がある」(円地文子)とか、控え目に見えて実は大胆であるとか、果ては「肉食系小悪魔女」などといった間違った夕顔像へと敷衍されてしまいました。原文を読んでいる人ですら、このような間違いをしてしまうのです。まして現代語訳のみで読む人々に、研究者は正しい理解を伝えることができているでしょうか。
 そこで私は、2008年の源氏物語千年紀を記念して、夕顔論を収めた研究書『源氏物語の風景と和歌』を増補版として出す一方、手軽に読んでいただけるように新典社新書創刊第一冊として『光源氏と夕顔』を出しました。既にお読み下さった方々は、現代の源氏物語研究や注釈史の問題点をご理解くださったことと思いますが、なお夕顔物語全体の解釈を示すには不十分であったように思います。そこで一般の考え方とどの点が異なるのか、何が問題なのかを、このページで具体的に示してゆきたいと思います。特に、一般の説(通説)と異なるところの口語訳と解説は青い文字で示し、《一般の解釈》を挙げて比較できるようにしました(一例として示した現代語訳は渋谷氏のHPから引用させていただきました)。そのほか細部についても、私が独自に訳しましたので、他の口語訳・現代語訳と比較してみて下さい。先にも触れましたが、青字の部分は解釈自体が異なりますから、これとABC説の訳とを混ぜては台無しです。そのつもりで、このページだけでなく、このサイト全体の説明を読んでみてください。
関連図書
 ・『絵入源氏 夕顔巻』(おうふう、1995年)解説
 ・『源氏物語の風景と和歌』(和泉書院、1997年)第六章「光源氏と夕顔」
 ・『源氏物語の風景と和歌 増補版』(和泉書院、2008年)増補編
 ・『源氏物語版本の研究』(和泉書院、2003年)第六章第三節
 ・『光源氏と夕顔―身分違いの恋―』(新典社新書、2008年)
 ・『源氏物語の真相』(角川選書、2010年)
 ・『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』(和泉書院、2014年)

 ※問題の「心あてに」の歌について、『河海抄』以来の説を〈諸説の変遷〉にまとめました。