6文学部の役割
 平成26年度、勤務先の帝塚山大学では、人文学部から名称変更された文学部に、文化創造学科が創設され、その学科と、旧来の日本文化学科および英語コミュニケーション学科をまとめる役割として、私は文学部長に選任されてしまいました。その学部長選挙の時期、私は、ライフワークとも言うべき『源氏物語の巻名と和歌―物語生成論へ―』の原稿を仕上げて出版社に送ったばかりでした。同時に、源氏物語と紫式部研究で名高い清水好子氏の論文集の編集を進めていました(4『清水好子論文集』刊行)。4月からの激務に備えて、どちらも三月末までに作業を終えなければならない事態となり、他にも諸々の仕事や講演などを多く抱えていたこともあって忙殺されていましたが、その仕上げとも言えるのが、パリのシンポジウムでした(1パリで源氏物語ほか)。パリから帰国したあと時差ぼけになる暇もなく新年度を迎えたのです。新設の学科については文科省に申請した内容を完成年度まで変更できませんから、改称した文学部の名を広めるべく、力に限りのある新学部長が思い立ったのが、源氏物語研究を基にしたHP開設でした。受験生集めという狭い了見ではなく、未来を担う若者達に日本の古典文学の真価を伝え、心の豊かさを育てる活動のつもりです。もともと古典文学に関心があり読解力のある学生は、受験勉強にも強く、レベルの高い大学を目指しますから、ともかく古典文学に関心を持つ若者の総数を増やしたいという意図です。
 私は、今はなくなった(府立)大阪女子大学を選んで入学して研究者になりました。母校に博士(後期)課程ができずに苦労した結果、2冊目の著書『源氏物語版本の研究』によって伊井春樹氏に主査をお願いして大阪大学で博士号を取得しました。そんな経験からすると、大学の偏差値でランク付けされて自分の能力にまで偏差値をつけてしまう現在の受験生が気の毒でなりません。皆さん、自分の行きたい大学や学部に行きましょう、と、声を大にして言いたいところですが、就職のことを考えると簡単ではないですね。私も就職には苦しみました。男女雇用均等法などなかった時代でしたから、あからさまな差別も受けました。けれども、女は男の三倍の業績をと励まされ、就職後もそのまま加速し続けました。日本の女性管理職は1割で、世界基準を大きく下回り、私が就職したときには「女を採用してもよいか」と会議で審議されたと聞きました。それだけに、文学部で学んだからといって研究者になろうとする必要はなく、むしろ文学を学ぶことによって、豊かな心と同時に、社会人としての人格を身につけていただきたいと思うのです。真の豊かさを求めるために、本物の文学を学んでいただきたいのです。
 奈良では歴史が文学より上位にあるように感じられます。奈良だけではありません。歴史が事実で正しく、文学は創作だから嘘の部分が多いと信じる方も多く、文学少女や文学青年の代わりに歴女などという言葉が出来ました。大学からは次々と文学部がなくなり、国際なんやら学部とかメディアなんとか学科などに改組される例が後を絶ちません。そんな中、教養学部から始まった本学部は、数年ごとに人文科学部から人文学部に名称を変え、今年度ついに文学部になりました。文学部には歴史も含み、日本文化学科は歴史と文学を両方学ぶことができますが、文学部となった限りは、文学を廃れさせるわけにいきません。どんなに実学志向でも、世の中から文学をなくすことはできません。現に、本屋から文学は消えていません。漫画やアニメやドラマも文学の一種です。かつては漫画やアニメを絵だけで説明する傾向がありましたが、いずれの場合も、絵のある文学であり、言葉のない絵ではないのです。その点では、源氏物語が常に絵画や絵本で親しまれ受け継がれてきた伝統を確実に継承しているのです。社会において文学研究を不要とした大人たちは、文学を単なる娯楽と貶めていたか低俗なものしか読まなかったからではないでしょうか。あるいは漫画なんて読まないで活字を読みなさいと子どもを叱っていた大人こそ、良い漫画と粗悪な小説の見分けができず、絵と文字の比率だけで判断していたのです。そんな大人たちが作り上げたのが、今の政治です。
 翻って歴史に目を向けると、歴史の記録に残るのは、政治の歴史であり、いわゆる勝ち組の歴史です。かたや文学は、政治から退いた、負け組の美学を記したものが大半で、どちらが正しいとか事実であるとかよりも、そもそも世界が異なるのです。社会に出て、歴史に残る人物と同じ経験のできる人がどれだけいるでしょうか。ほとんどの人達が、文学の中の人物なのです。光源氏にしても完璧な人間ではありません。だから嫌いだとか面白くないというのは、作品を読んだことのない人が言うことです。共感できるかどうかだけではなく、反発する気持ちも含めて、そこには人生と心の世界があります。歴史資料に書かれていることの多くは事実の確認や因果関係です。歴史上の人物で人気があるのは、司馬遼太郎が活き活きと描いた虚構の世界すなわち文学の中の人々たちです。
 学問としての文学が廃れたのは大人の責任です。ただ受験生が減ったから、就職に結びつかないと言って、実学という名の技術習得に飛びついたことから、その実学すらも浅薄なものに貶められてしまいました。技術は自ら動いて訓練するしか習得できないのです。文学はどうでしょうか。読んで楽しむだけなら誰かに教わる必要はなく、中学までの国語力と辞書があれば、ある程度は楽しめるでしょう。けれども難解な作品や古典、そして名作とされるものは、何百年も読み継がれてきただけに、通り一遍の読み方では見えない奥行きがありますから、それこそ大学で学び、その奥深さを知り、人格を形成する高度な教材となるのです。研究の歴史が長いだけでなく、その時代背景を知ることによって作品の真価を知り得るのです。大学が文学部から始まったことには意味があるのです。それをみすみす逃して、手取り足取り技術を教えてもらうために大学に入学しても、結局は、自身の努力と訓練と時間が必要であることを痛感して卒業、なんてことになってしまいます。その心構えを教わって、その気持ちを持って社会に出ることが重要であるなら、文学の奥深さ、人間の多様さを学んで卒業することとどちらが良いでしょうか。
 文学の可能性は無限です。あれほど活字離れや出版不況が叫ばれても、文学はなお若者を惹きつけています。アニメや漫画や映像や芸能に形を変えても、その脚本や原作は確かに文学なのです。そして人生こそ文学の題材なのですから、それを学ぶことは人間を学ぶこと、いかに生きるのかを学ぶことになるのです。これこそ優れた指導者が必要な分野なのです。文学こそ大学で学ぶべきものであり、千年間の伝統を持つ正統な学問の方法を正統な指導者から学び、後世に伝えなければならないのです。
  参考図書
   ・『源氏物語の巻名と和歌―物語生成論へ―』(和泉書院、2014年)
       ・『清水好子論文集 第二巻 源氏物語と歌』(武蔵野書院、2014年

   ・『源氏物語版本の研究』(和泉書院、2003年)

〈補足〉
 右のポスターは、2015年1月、近鉄電車の扉横に貼られた広告です。ここには大きく「実学の帝塚山大学」とあり、大学全体のテーマを掲げています。上で述べたことは、このことと矛盾しません。この「実学」は狭義の技術習得の意味ではなく、すべての学問は実学であるべきという意味だと私は考えています。詳しくは源氏物語は誰のために書かれたの?で。