「絵入源氏物語」夕顔  1「絵入源氏物語」夕顔巻
白い花を見た光る君は「をちかた人にもの申す」とつぶやき、それを聞いた随身が「かの白くさけるをなむ夕顔と申しはべる」と答えます。簾の隙間から女たちがのぞいています。
2『十帖源氏』夕顔巻
 夕顔の花を所望する貴公子の命で門に入ろうとする随身に、夕顔の宿から出て来た童女が「これに置きて参らせよ」と扇を渡しました。場所は五条大路、ここから東南には稲荷山が望めます。
〈補足〉
 稲荷には、霊験(しるし)の杉を、家に持ち帰って植えて、枯れなければ霊験がある、という伝承があります。蜻蛉日記の注釈書にも、その説明が見られますが、その歌は、「稲荷山おほくの年ぞ越えにける祈るしるしの杉をたのみて」という例なので、三輪山の「杉立てる門」の目印と同様、稲荷山の目印となる杉の木だとする指摘もあります。
 更級日記になると、稲荷の「霊験の杉」が繰り返し出てきます。長谷寺に参拝したとき、稲荷の「しるしの杉」を投げられた夢を見たと記し、後年その出来事を回想して、あのときすぐに稲荷詣でをしておけば、今頃こんな不幸にならなかったのにと反省しています。孝標女は初瀬に詣でたのですから、神の杉なら、初瀬からほど近い三輪山の目印となる「しるしの杉」を思ってもよいはずですが、初瀬で稲荷の「しるしの杉」を思い出し、その御利益・霊験を祈るのです。
 こんなところにも、初瀬と稲荷との浅からぬ関連がうかがえます。古今集に入る三首の旋頭歌が稲荷と初瀬の歌垣の歌であったこと(初瀬の歌垣)も偶然ではないのでしょう。歌垣の行われた稲荷と初瀬の霊験とは、道綱母と孝標女の願った、良い人(夫)との出会いや縁を願うものだったのではないでしょうか。現在どれだけ霊験があるのかはわかりませんが、婚活のパワースポットの一つかもしれません。
3)稲荷の歌垣
夕顔巻の冒頭、光源氏が「白き花」に眼をとめてつぶやいた「をちかた人にもの申す」は、男女の出会いの場〈歌垣〉で交わされた求婚問答歌の一節です。その問答歌は、古今和歌集にあります。
    題知らず よみ人知らず
 ・うちわたすをちかた人にもの申すわれ
  そのそこに白く咲けるは何の花ぞも
    返し
 ・春されば野辺にまづ咲く見れどあかぬ花
  まひなしにただ名のるべき花の名なれや
                (古今集、雑体、旋頭歌)
光る君は、花の名を問いかけることで、相手の名を聞き出す求婚の歌をつぶやいたのです(初瀬の歌垣参照)。省いた下の句の意図を察知した随身は、「かの白くさけるをなむ夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲きはべりける」と答えました。この返事に、源氏は花の運命に同情して「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」と命じます。随身の返答は一件完璧に思えますが、源氏のつぶやき=引歌(ひきうた)は、花の傍にいる女に問いかけた歌であり、古今集の旋頭歌のように、本来は女が歌で返すのが礼儀です。とはいえ、こんな小家に、自分のつぶやきのわかる女がいるはずもありません。ところが意外なことに、夕顔の宿の女は、旋頭歌に倣って歌で花の名を答えてきたのです。返歌の「まひ」とは、神のお供え(神饌)のことですから、女は花の精、あるいは神の使いとして答えているのです。
 さて、この問答が交わされたのはどこでしょうか?これは早春の歌ですから、この白い花は古くから梅の花とされています。この問答にもっともふさわしい場は、稲荷の初午詣で、稲荷山の歌垣でした。稲荷山では古代、歌垣の風習がありました。加納重文氏は「京中庶民にとっての歌垣の場は、庶人群衆する二月初午の稲荷詣であった」と述べておられます。紀貫之と大中臣能宣にも次の歌があります。
    二月初午、稲荷詣で
 ・い垣にもいたらぬとりの稲荷山越ゆる思ひは神ぞしるらむ(貫之集)
    二月初午に稲荷詣でする男女ゆきかふ、梅の花のもとに女の休むに男とどまれるに
 ・さしてゆく稲荷の山の過ぎがたみ花のあたりの移り香により(能宣集)
稲荷山に向かう男が、梅の花のもとで休む女に歌を読みかけました。稲荷詣に行き交う男女は、歌垣にならって歌を詠み交わしたのでしょう。稲荷の歌に恋の歌が多く、「ゆきかふ」と言うのは、山道で人が往来するだけでなく、男女が出会う歌垣の風習が背景にあったからなのです。
 光源氏がこの歌をつぶやいたのは、六条京極つまり平安京の東南に向かう道中であり、稲荷山が近くに望める五条あたりであったからだと考えてよいのですが、その花の実こそ、稲荷社に捧げる瓜・瓢(ひさご)だったのです。

 参考文献
 ・『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』(和泉書院、2014年)
 ・渡邊昭五「歌垣と稲荷詣の伝存習俗」(「朱」37号、1994年)
 ・加納重文「木幡山越え」(「朱」41号、1998年)