1)瓜と狐
 1「夕顔と稲荷」で、瓜が食を祀る稲荷信仰と関わっていると書きました。その点を少し詳しく書きます。稲荷と言えば狐ですが、狐は稲荷のご神体ではなく神の使いだそうです。『稲荷をたずねて』には、「狐」の字源は、中国の甘粛省蘭州で栽培される腕ほどの大きな瓜が狐の大好物だったから、という説が紹介されています。狐が瓜の軟らかい部分を食べるうちに皮に潜り込むので容易に狐を捕獲できたため、春秋時代から胡の地方の皇帝への献上品目録に狐の毛皮が多く記されていたというのです。夕顔の実は、まさに大きな瓜であり、干瓢の材料になります。五来重氏は『稲荷信仰の研究』総論において、狐の古語「ケツネ」が「ケ(食)ツ(の)ネ(根元霊)」とする食物霊であるとされました。
 狐の好物は油揚げとされていますが、油揚げを供える習慣は後世のもので、神様のお供え(神饌)は小麦や大豆粉の餅を揚げた「太摩我里(ふとまがり)」だったそうです。白い餅が白鳥になったという稲荷社の縁起によれば、餅が正当な供物だったのでしょう。奈良の名物「ぶと饅頭」(砂糖たっぷりで甘い!)は春日大社の祭礼の神饌を再現したもので、やはり油揚げ太摩我里と言えます。
 京阪奈地方では、油揚げを巻いた鮨(すし)を「おいなりさん」と言います。大阪出身で江戸に移住した喜田川守貞が上方と江戸の相違などを記した『守貞漫稿』には、幕末の江戸で、油揚の袋で木茸(きのこ)と干瓢(カンピョウ)を刻んで入れた鮨飯を包み、鳥居を描いた行灯を下げて夜に売り歩いた鮨売りがいて、その姿が狐に似ており、狐(野干)が油揚を好むことから、稲荷鮨・篠田鮨と名付けられた、とあります。ここに、稲荷鮨の具として干瓢が出てきます。干瓢で油揚げを巻く稲荷鮨や餅入り巾着も伝わっています。油揚よりもむしろ干瓢の方が狐の好物であり、きつね色と形が狐の姿を思わせたのでしょう。また、狐の尻尾が稲の穂に似ているため、稲荷社縁起の「稲奈利」(稲成り)に通じるという説もあります。
 狐と瓜との接点は他にもあります。吉野裕子氏は、稲荷信仰において狐が神格化される「三徳」の一つに、狐の座った後ろ姿と瓠・瓢(ひさご)の形とが相似することを挙げています。そして、瓠つまり瓢箪が、縦に割ると北斗七星を表す柄杓の形になることから尊ばれ、器として神事に用いられたこと、神楽歌にも「ひさかたの天の河原に瓠(ひさ)の声する」とか「御饌(みけ)立つと打つなる瓠は宮もとどろに」と謡われたことについて、「瓠形(ひさかた)の北斗という食器を通して、はじめて供饌は祖神に届く。それ故に人は大祭の夜を徹して瓠を打ちはやし、供饌の大神への到達を願ったと思われる」と説明されました。歌の枕詞「ひさかたの」は、北斗七星の形をしたヒョウタンの意味だったのです。
 つまり、夕顔は単なる野菜の花ではなく、神事との関わり、特に食物信仰との関わりが強く感じられます。また「白い餅」「白鳥」となると、源氏物語の夕顔の歌とその本歌、そして女の衣装と風景が「白」で統一されていたことも神事と関わっていたように思われます。1「夕顔と稲荷」で、夕顔の白い花が白木綿(ユフ)に、白い扇が御幣に見立てられると書いたのは、そんな背景があるからです。

  • 参考図書
  • ・南日義妙『稲荷をたずねて』(文進堂、1980年)
  • ・伏見稲荷大社「朱」1~57号(1966~2014年)
  • ・国立国会図書館デジタル化資料『守貞漫稿』巻六
  • ・五来重監修『稲荷信仰の研究』(山陽新聞社、1985年)
  • ・吉野裕子「狐の三徳―稲荷神としての狐―」(「朱」22号、1978年)
  • ・山折哲雄編『稲荷信仰事典』(戎光祥出版、1999年)
  • 詳細は、拙稿「源氏物語の和歌と稲荷信仰―歌垣・神事と夕顔・玉鬘―」(「朱」57号、『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』所収)

1狐
 きつね。
野干(ジャッカル)。
油揚げは、まさにキツネ色ですね
   
 2再び夕顔の実
ネットにもきれいな画像が多数掲載されていますのでご確認ください。 
 〈補足1〉
 催馬楽「山城」に、狛の瓜作りが出て来ます。
・山城の狛(こま)のわたりの瓜作り ななよやらいしなやさいしなや 瓜作り瓜作りはれ瓜作り 我を欲しといふいかにせむ ななよやらいしなやさいしなや いかにせむいかにせむはれいかにせむ なりやしなまし瓜立つまでに やらいしなやさいしなや 瓜立つま瓜立つまでに(催馬楽、山城)
源氏物語の紅葉賀巻でも「瓜作りになりやしなまし」と謡われます。「山城の狛のわたり」とは、渡来氏族が瓜栽培の技術を持ち込み瓜畑にしたという木津相楽地区を指します。渡来人との婚姻をためらう女の気持ちを表した歌詞で、夕顔物語における身分違いの恋や異類婚姻譚に通じるところがあります。『拾遺集』にこれを基にした歌があります。藤原国章が「小さき瓜を扇におきて」藤原朝光に届け、「さだめなくなるなる瓜のつら見ても立ちやよりこむ狛のすきもの」という歌を詠みました。瓜を「扇に置きて」は、夕顔の枝を「これに置きて参らせよ」と白い扇を渡した状況と同じです。瓜の歌では「成る・生る(なる)」「立つ」がよく用いられ、それぞれ実り、神などに捧げることを意味します。野菜の豊作を意味するだけでなく、瓜の育つ様が子の成長と重なり、めでたい作物とされたのでしょう。そして、瓜を作り山城国を拓いた渡来氏族と言えば、稲荷の始祖とされる秦氏であり、稲荷は農耕の神でした。瓜・夕顔と稲荷とはこうして繋がっていたのです。
 国章が「すきもの」と詠んだのは、瓜が、同じ蔓からでもさまざまな形に成るからであり、小さな瓜を子どもの顔に見立てて「つら」(蔓のづらとの掛詞)と表したのです。これこそ「玉かづら」の蔓草です。
 〈補足2〉
 『守貞漫稿』巻六「鮨売」に、京阪から伝わった鮨を江戸で売り歩いていたと書かれた最後に、「天保末年、江戸ニテ油揚ゲ豆腐ノ一方をサキテ袋形ニシ木茸干瓢等ヲ刻ミ交ヘタル飯ヲ納テ鮨トシテ売巡ル日夜売之共夜ヲ専トシ行燈ニ華表ヲ画き号テ稲荷鮨或ハ篠田鮨と云共ニキツネに因アル名ニテ野干ハ油揚ヲ好ム者故ニ名トス」とあります。