2)紫のゆかり
 伊勢物語と源氏物語との表現上の最大の相違は、「ゆかり」という語です。周知の通り、若紫の物語は「紫のゆかり」の物語であり、物語中でも、
  あながちなるゆかりもたづねまほしき心もまさりたまふなるべし(若紫巻)
  かの紫のゆかりたづねとりたまひては(末摘花巻)
と繰り返されています。けれども、すでに見た歌、
  紫の一本ゆゑに武蔵野の草は皆がらあはれとぞ見る(古今集)
  知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ(古今六帖)
  下にのみなげくを知らで紫の根ずりのころもむつまじきゆゑ(実方集)
  白露のむすぶばかりに花を見てこはたがかこつ紫のゆゑ(同)
では、すべて「紫のゆゑ」とあり、若紫巻で引歌として注釈書に示される古今集や伊勢物語の歌にも「ゆかり」という語は見あたりません。
  「ゆかり」という語は、次の贈答歌が初出です。
   かれぬべき草のゆかりをたたじとて跡をたづぬと人は知らずや(九条右大臣集)
  露霜の上ともわかじ武蔵野のわれはゆかりの草葉ならねば(同返し)
この贈答歌には、源氏と紫の上との贈答歌と同じく「草のゆかり」があります。源氏の「ねはみねど」歌に対して、幼い紫の上が「いかなる草のゆかりなるらむ」と切り返したやりとりの基になったと思われます。この歌を理解するために、九条右大臣藤原師輔の妻を次に列挙します。
 ・藤原盛子(武蔵守経邦女「北の方」)天慶六年(943)没
 ・勤子内親王(醍醐天皇四女「四宮」・母近江更衣源周子)承平八年(938)没
 ・雅子内親王(醍醐天皇十女「斎宮」・母近江更衣源周子)天暦八年(954)没
 ・康子内親王(醍醐天皇十四女「北の宮」・母穏子中宮)天暦十一年(957)没
北の方は藤原盛子で、円融天皇の摂政となる伊尹、道長の父・関白兼家、村上天皇中宮安子たちの母親ですが、師輔は、醍醐天皇の皇女を次々と娶ったことで知られます。最初は勤子内親王、次にその妹で斎宮となった雅子内親王を愛します。二人は、光源氏のモデルとされる源高明の姉です。師輔は、この姉妹を亡くした後、康子内親王とも結ばれます。師輔の「かれぬべき草のゆかりを」の歌は、雅子内親王の「ゆかり」として愛した康子内親王に贈った歌です。同じ醍醐天皇の皇女でも母親の異なる康子は「われはゆかりの草葉ならねば」と切り返したのです。師輔は、先に引用した九条右大臣集の、
  武蔵野の野中をわけてつみそめし若紫の色はかはりき
においても、「武蔵野」と「若紫」を組み合わせて詠んでいます。
 師輔歌の影響でしょうか、天徳年間には次の歌も作られています。
  武蔵野の草のゆかりに藤袴若紫にそめてにほへる(元真集)
  紫の色にはさくな武蔵野の草のゆかりと人もこそ見れ(拾遺集、物名、如覚法師)
この二首には「武蔵野」「草のゆかり」「紫」という、若紫の物語のキーワードがすべて詠まれています。特に元真の歌には「若紫」という語もあります。これは、天徳三年(960)八月二十三日に斎宮女御徽子女王が主催した前栽歌合の歌です。拾遺集の歌は、師輔の息子で若くして出家した多武峰少将・高光(如覚)の作です。つまり、源氏物語の「紫のゆかり」の物語は、伊勢物語を源泉としながらも、師輔の恋愛と歌を踏まえて作られたと考えてよいでしょう。


1「絵入源氏物語」若紫
 二条院に引き取った紫の君に対して、源氏が歌と書を教える手習いの場面。紫の紙にヒントを書き、「ねはみねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを」と書くと、紫の君は「かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらむ」と返す歌を書きました。
やがて本にとおぼすにや、手習ひ、絵などさまざまにかきつつ見せたてまつりたまふ。いみじうをかしげにかき集めたまへり。「武蔵野と言へばかこたれぬ」と紫の紙に書いたまへる、墨つきのいとことなるを取りて見ゐたまへり。少し小さくて、
  ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを
とあり。「いで、君も書いたまへ」とあれば、「まだ、ようは書かず」とて見あげたまへるが、何心なくうつくしげなれば、うちほほ笑みて、「よからねど、むげに書かぬこそわろけれ。教へきこえむかし」とのたまへば、うちそばみて書いたまふ手つき、筆取りたまへるさまの幼げなるも、らうたうのみおぼゆれば、心ながらあやしとおぼす。「書きそこなひつ」と恥ぢて隠したまふを、せめて見たまへば、
  かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらむ
と、いと若けれど、生ひさき見えて、ふくよかに書いたまへり。故尼君のにぞ似たりける。いまめかしき手本ならはば、いとよう書いたまひてむ、と見たまふ。(源氏物語、若紫巻)
 
〈一条天皇と中宮彰子〉源氏物語は誰のために
上の場面には、高貴な男が幼い姫君を教育する様が具体的に書かれています。これをお読みになった(女房の朗読による)一条天皇は、そうか、こうして若き彰子中宮を、亡き定子皇后のような教養ある女性に育てればよいのだと、光源氏を手本にしたことでしょう。彰子中宮は、紫の君のように素直に天皇から学べば愛してくださり、立派な后になれると、物語に学んだことでしょう。お二人は、光る君と紫の君の関係を理想として源氏物語を熱心に享受したと思われます。一条天皇の辞世の歌は、賢木巻で源氏が紫の上を思って詠んだ歌を基にし、翌年の法要で彰子が詠んだ哀傷歌は、若紫巻で光る君と藤壺との逢瀬での別れの歌を基にしています。
〈補足〉
藤原師輔は、紫式部が仕えていた藤原道長の祖父です。源氏物語の巻名に関わる歌には、師輔とその息子の高光と伊尹の詠歌が多く見られます。師輔は、盛子の娘を源高明に嫁がせましたが、その娘が亡くなると、雅子内親王の娘・愛宮を高明の妻にします。師輔亡き後、高光は出家し、源高明も安和の変で太宰府に下向します。源氏の須磨下向はこの高明を準拠としています。残された愛宮は出家し桃園に移りますが、これは朝顔宮の物語の基になったものです。高光・愛宮兄妹の悲話は蓬生巻の源泉にもなっています。源氏物語には、村上天皇の後宮や九条右大臣の周辺に伝わる歌語りを基にした物語が数多くあります。歴史的事件との類似だけを見ていてはわからないことが、和歌の類似から見えてきます。詳しくは、新説を満載した拙著『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』をお読みください。『源氏物語の真相』の論をさらに深めて、54帖全巻にわたって論証したものです。