3玉鬘と長谷寺 
 夕顔の侍女で今は源氏に仕えている右近(挿絵1)は、夕顔の娘を探し続けていましたが、初瀬観音に再会を祈るため長谷寺近くの椿市の宿で、かつて夕顔に仕えていた人々と遭遇し、夕顔の娘・玉鬘(たまかずら)と念願の再会を果たします(挿絵2)。そして翌日、長谷寺の内陣に案内し、寺の僧に「例の藤原の瑠璃君と言ふが御ためにたてまつる。よく祈り申したまへ。その人この頃なむ見たてまつりいでたる。その願も果たしたてまつるべし」と言います(挿絵3)。
 玉鬘一行は、亡くなったことを知らない母親に会いたいと九州から上京し、石清水八幡宮にお参りしますが御利益がありませんでした。そこで次に奈良の南部にある長谷寺まで苦労してやってきたのです。その場所で、右近と再会できた理由は二つあります。
 一つ目は、右近が玉鬘のことを「藤原の瑠璃君」と呼んで祈っていたことです。長谷寺は、もとは東大寺つまり天皇家の管轄にあったのが、源氏物語が作られる頃には藤原氏の興福寺の管轄下に置かれるようになっていました。長谷寺に平安時代の人々が多く参拝したと説明されますが、その大半は藤原氏しかも摂関家ゆかりの人々であることがわかっています。『蜻蛉日記』の道綱の母も二度、長谷寺参詣をしていますが、手配をしたのは藤原兼家でした。宇治の別荘で泊まったのち椿市に宿をとっています。つまり、長谷寺ゆえに、藤原氏の姫君である玉鬘の願いがかなったということになります。
 もう一つの理由は、この初瀬という地が、再会に霊験ある土地ということです。二人は再会を喜んで歌を詠み交わしました。右近は「ふたもとの杉のたちどを尋ねずはふる川野辺に君をみましや」と詠み、「うれしき瀬にも」と付け加えました。玉鬘も、「初瀬川はやくのことは知らねども今日のあふ瀬に身さへ流れぬ」と詠みました。これは古今集の旋頭歌「初瀬川古川野辺に二本ある杉年をへてまたもあひ見む二本ある杉」や、古今六帖の「祈りつつ頼みぞわたる初瀬川うれしき瀬にも流れあふとや」によっています。「初瀬川」は浅瀬で合流しますから、人と出会う場所とされます。「二本ある杉」とは、根元から二本に別れている二本杉(ふたもとすぎ)のことで、これも再会がかなう霊木とされ、金春禅竹の謡曲「玉鬘」は、この杉の前で玉鬘と右近が出会う話です。玉鬘の再会の地が初瀬、長谷寺であることは、その風土、歴史、信仰と深く関わっていたのです。(1)初瀬の歌垣へ)

  • 関連書籍
  • 『源氏物語の巻名と和歌 物語生成論へ』(和泉書院、2014年)
  • 『源氏物語の真相』(角川選書、2010年)
  • 逵日出典『長谷寺史の研究』(巌南堂書店、1979年)
1「絵入源氏物語」夕顔
夕顔の急死に遭遇した右近(前頁の挿絵2)は、二条院の女房として源氏に仕えています。右近から夕顔の素姓を聞き、源氏は空をながめています。
2「絵入源氏物語」玉鬘

夕顔の娘を探して長谷寺に参詣しようと椿市の宿に着いた右近は、玉鬘一行と相部屋になり、再会します。絵の右上に、長谷寺の長い階段が描かれています。

「絵入源氏物語」玉鬘 玉鬘一行と右近は、長谷寺に参詣します。玉鬘は右近に伴われて内陣で参拝し、下女の三条は外陣の舞台で頭をすりつけ祈ります。右上には2本の杉の木が描かれ、舞台の下には初瀬川が流れています
〈補足〉
長谷寺の現在の金堂が再建されたのは、慶安3年(1650)6月だそうです。「絵入源氏物語」の完成は、編者の山本春正の跋文(あとがき)によると、慶安3年霜月です。挿絵は、再建直後の金堂を、階段左手にある宿坊から写生したものと思われ、宿坊は17世紀初めにできたと記されています。挿絵は江戸時代~現在の長谷寺境内の様子を伝え、南都名所図会に先立つ観光パンフレットとも言えます。平安時代のものではないのですが、こうした点を考慮すれば、「絵入源氏物語」の挿絵は物語の風情を伝えるので便利です。